本が教えてくれたもの

一つだけ
教えて
おこう。

きみは
これからも
何度も
つまずく。

でも
そのたびに
立ち直る
強さも
もってる
んだよ。

 人間が魅力的になるのは、満足している恋をしている時ではなく、恋に破れたり苦しい恋に耐えたり恋を悔やんでいる時なのです。

 少し前の五月のある日、私は孫とふたりで散歩に出かけた。孫には何も言わずに出発したが、私には孫とふたりで行きたい場所があった。
 駅の向こう側におじいちゃんが一人でやっている玩具屋さんがある。ボロボロの店の軒先では百円ほどで時代後れのオモチャを売っている。店内に入ったことはないが、その寂れ具合も容易に想像できた。
 商店街という“群れ”からはぐれてしまったかのような「孤独な店」。その玩具屋さんが、私の行きたい場所だった。

「店が閉まっていたら閉まっていたでしょうがない」そう思いながら孫とふたり、手を繋いで街中をのんびりと散歩する。
 駅を通りすぎ、目指す店の近くまで来ると軒先にオモチャが陳列されているのが見えた。
 孫の手を引き、薄暗い店の中に入っていく。客はもちろん私たちだけ。入ってしばらくすると私たちの気配を察したのか、店の奥から孤独感丸出しのおじいちゃんがぬっと現れた。
 おじいちゃんは私たちを一瞥するとレジの前に座り込んだまま動かない。「いらっしゃいませ」のひと言もない。
 店内にはほこりを被り、すっかり日焼けしたオモチャの箱がいくつも並んでいた。群れからはぐれた孤独なおじいちゃんと時代から取り残され、行き場を失ったオモチャたち。店の中のあらゆるものが孤独をまとい、冷たくなっていた。

 孫に「何か欲しい物があるかい?」と聞いてみる。孫はみっつほどのオモチャに興味を示していたが、最終的に一体のフィギュアを選んだ。
「これちょうだい」
 目の前で無愛想なおじいちゃんが会計と梱包を進めている。私は黙ってそれを見ていた。
 梱包の済んだ商品が手渡された時、私は孫に「おじちゃんが包んでくれたんだから、ありがとうって言いなさい」と言った。
孫は私に言われた通り「おじちゃん、ありがとうございました」と素直にお辞儀をした。すると次の瞬間、おじいちゃんの顔から、すっと孤独感が抜けていった。
 孫の発した言動の中にある、純粋無垢な温かさがおじいちゃんの冷えて固まってしまった心をほんの一瞬だが解きほぐしたように見えた。
 おじいちゃんは立ち上がって店先まで私たちを見送ってくれた。そして私たちが店を出るときには、孫と目線を合わせるようにしゃがみ込み、こう言った。

「また来てね」

 この玩具屋のおじいちゃんの商い生活の中で、冷やかしや、威張って買う客はいても、お礼を言って帰るような客はいなかったのだろう。
 私たちの予想外の言動によって孤独の扉が開き、おじいちゃんはほんの一瞬だが孤独の世界から飛び出すことができたようだった。
 少額の買い物だったが、どんな高価なものを買うよりも私は幸せを感じることができた。
 デパートで「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と機械的に言われるより、おじいちゃんの「また来てね」という言葉に“生”の触れ合いの温かさを実感した。

「ああ、どうして、一回失敗したら、もう全部を投げるんだろう!? ここからどれぐらいふんばるかが人生じゃないかあああ!」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

「自分の感受性くらい」茨木のり子
 (『茨木のり子 集 言の葉 2』筑摩書房 所収)

 表札

自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。

自分の寝泊りする場所に
他人がかけてくれる表札は
いつもろくなことがない。

病院へ入院したら
病室の名札には石垣りん様と
様が付いた。

旅館に泊っても
部屋の外に名前は出ないが
やがて焼き場の鑵にはいると
とじた扉の上に
石垣りん殿と札が下がるだろう
そのとき私がこばめるか?

様も
殿も
付いてはいけない、

自分の住む所には
自分の手で表札をかけるに限る。

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい。

                       『表札など』より

ぼくらの言葉塾|ねじめ正一(岩波新書)

※引用した詩は石垣りん『表札』

夏は自分一人でつかむもの。夏とは、自分一人で別れるもの。

初めての強烈な読書体験といえば、ロアルド・ダールの「チョコレート工場の秘密」である。文字通り、夕飯を食べるのも忘れて読み耽った。(中略)しかも、訳は田村隆一である。今読み返してもぞくぞくするような、ものすごい名訳なのだ。


三月は深き紅の淵を|恩田陸 (講談社文庫)



チョコレート工場の秘密|ロアルド・ダール (てのり文庫 (566C008))

そして「グレート・ギャツビー」はその後ずっと 僕にとっては最高の小説でありつづけた。僕は気が向くと書棚から「グレート・ギャツビイ」をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣にしていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。一ページとしてつまらないページはなかった。なんて素晴らしいんだろうと僕は思った。


ノルウェイの森|村上春樹 (講談社文庫)



グレート・ギャツビー|フィッツジェラルド (新潮文庫)

 停学中に旅をして、そのとき入った本屋で、植村直己さんの『青春を山に賭けて』に出会った。植村さんの名前も当時はほとんど知らなかった。小学校のときに、教科書に出てきたのをなんとなく覚えているという程度だ。
 別に山の本を探していたわけじゃない。小学校のときから冒険ものは好きで『ドリトル先生航海記』や上温湯隆さんの一生を追った長尾三郎さんのノンフィクション『サハラに死す』などをよく読んでいた。
 植村さんの本を読んで驚いたのは、彼も落ちこぼれだったということ。決してスーパースターじゃない。日本を脱出してアメリカで不法労働でつかまり、小心者のくせにフランスでスキーもできないのにできると嘘をつく。自分がエベレストに登ったときは、同じチームでアタックできなかった他の人たちに申し訳ないと悩んだり、とても繊細な人だということが分かる。
 植村さんは、決して強い人じゃなかった。それなのに、なんだかんだと言いながら夢を実現していく強さ。世界中を旅しながら、必死で生きている姿があった。
 完全に「植村直己」という個人の名前で生きている。
 僕はこの本の影響をとても強く受けた。こういう人もいるのかと新鮮だった。

確かに生きる 落ちこぼれたら這い上がればいい|野口健 (集英社文庫)



青春を山に賭けて|植村直己 (文春文庫)